教え子國學院大学法学部現役合格の報告と天国にいる祖父へ。

保護者様から、先週の授業で、僕の授業を受けた感想を頂きました。


「私は作文が、本当にダメなのよ」と、照れ笑いしながら、お忙しい中、書いて頂けました。


僕が担当してきたある生徒が、國學院大学法学部にAO入試で現役で合格しました。


元暴走族で、4ヶ月の猛烈な受験勉強を経て大学に合格し、予備校講師となった東進ハイスクールの古文の先生、吉野啓介(よしのけいすけ)という予備校講師と同じ大学です。


「國學院にいきたい」そんな風に言っていた、去年の12月を、未だに僕は覚えています。


と、その前に。


最初に少しだけ、僕の祖父の話をさせてください。


昨日は祖父の葬式でした。


最後のお別れをしてきたのですが、そんな今日だからこそ、我が教え子の合格の報告の記事を、きちんと書きたいと思いました。


ずっと書こう書こうと思っていた記事です。



僕の祖父は、韓国で生まれ、日本に7歳の時にやってきました。


その後一度帰国し、14歳からはずっと日本で過ごし、学校に一切通わずに独学で日本語と商売のノウハウ学び、一代で事業を起こしました。


本当の最初の一歩は、潰れたお店を土地ごと購入したところから始まったということを、僕は初めて知りました。


途中でお店が同業者に乗っ取られたり、日本語が話せないためたくさん騙されたりもして、「血の涙が出るほどの苦労をした」と話していたと、僕の父が言っていました。


その祖父のおかげで、今の僕の命はあります。


僕の祖父は、とても厳格な人でした。


僕の父は大人になっても祖父と話す時は敬語で、正座をしていました。


でも、僕の祖父は、とても勉強熱心でした。


祖父の90歳の誕生日プレゼントは、「ひらがな五十音」のカレンダーでした。


僕の親戚の姉(姉同様の存在です)に、「ひらがな五十音を買ってきてくれ。もう一度日本語を勉強し直したい」と言っていたと言います。


90歳になってまでも、勉強をしようという姿勢に、僕は驚きました。


確かに、僕がまだ小さな頃、僕の祖父は虫眼鏡を片手に、いつも漢字辞典を読んでいました。


小学生の時に、公園に散歩に行き夕方の5時になると鳴る鐘を一緒に待って聞いたことや、


高校生の時にいきなり呼び出され「お前は経営者になれ」と突然言われたことや、


同じく高校生の時に祖母に乱暴な言い方をしているところを、僕が本気で怒りすぎて泣きながら祖父に「おばあちゃんに謝ってほしい」と言ったことや、


2011年3月11日の東日本大震災で、ある早朝の津波警報で急いで地元の小学校に共に避難したことや、家族と共に福島から東京へ避難をし葛飾区の公民館の冷たい体育館の床で寝泊まりをしていた5年前の3月のある夜や、


「一升の升には一升しか入らぬ」と、正月にたった一言だけ当時の僕の姿を見てそう言って、「あとは自分で考えろ」と言われたことや、


いつの間にか車椅子でしか歩けなくなり、その車椅子を引いて病院まで一緒に行っている最中に、僕が「ここまできたら100歳まで目指そうよ」と言って、それを聞いて笑っていたこほんの1ヶ月前のことを、
思い出しました。


祖父は、「自分一人で人生を切り拓いてきた」という自負が自分の中にあり、立ち上がる時や歩く時に、腕を持って支えようとすると、それを振り払って「いいからお前は先にいけ」と言う人でした。


でも、いつの間にかそれも拒まなくなっていきました。


そんな祖父のおかげで、僕の家系というものがあって、そんな祖父は学校も通わずに事業を立ち上げ、家族を守るために必死に働いた。


「僕も頑張らねば」と心の底から思いました。


最後のお別れをする時に、祖父が使っていた、もう日焼けもして茶色くなってボロボロのその辞書を、一緒に入れてあげました。


この身一つで日本へやってきて、日本語も話せなかった祖父。


小学校さえも行ったことがない、祖父。


だけど、常に学ぼうとし、挑戦し、「体」で知識を学んできた、祖父。


祖父の手を握りながら、「日本一、生徒に尽くす塾を建てるからね。心に残るような塾を建てます。良い本も書きます。祖父のように、何かを立ち上げるということを、僕も選びました。見守っていてください。心にずっと残るような教育者になります」と心で祖父に誓いました。


「何かに対して、徹底的に挑戦する」ということを、僕に教えてくれたと思っています。


祖父は「教育」というものさえ受けたことがありませんでしたが、僕は祖父はとても勉強熱心な人だったと思っています。


祖父は、「生きる力」に溢れており、机の上の勉強以外の多くのことを、祖父は「勉強」したのだと思います。


だからこそ、たった一人で大きなことを成し遂げることができたのだと思っております。



長くなりましたが、そんな天国にいる祖父に、手紙を書いているような気持ちで、今から教え子の合格報告をさせて頂きます。


僕が家庭教師を始めてから、一番最初の生徒様、保護者様がいらっしゃいました。


なんの実績もない僕のことを、選んでくださったご家庭でした。


僕は今年の最初は、埼玉県草加市で友人と共に「在宅型の塾」を建てるという計画を立てており、そのため、僕の行動の拠点は埼玉県に完全に移行しかけていました。


しかし、


「その塾は、塾だものね。行かなきゃいけないんでしょう? あの子たちがね、朴先生がいいっていうの。だから朴先生、お願いします。」


そんな風にお母様が言ってくださいました。


僕は、僕という人間が選ばれたことに、大きな嬉しさを覚え、電話越しに声が震えました。


そして、埼玉県に拠点を置きつつも、彼らのことを家庭教師として担当することを心に決めました。


僕にとっての、初めての生徒でした。


契約の日、生徒たちの前で僕は言いました。


「先生、がんばるから。君たちのために、頑張るからさ。だからついてきて欲しい。」


頭を少し下げた気がします。


僕は、彼らの「人生」という部屋に入っていく前に、その扉をコンコンと、ノックをしたような気がしました。


「はい、お願いします。」


笑顔で言ってくれました。


「必ず受からせる。そして、普通の塾や家庭教師とは違う、「成績が上がる」だけではなく、彼ら自身の「学ぶ力」を徹底的に鍛えるような人に、僕はなろう。彼らの、人生の一部になろう。」

そんな風に、生徒たちと保護者様と、自分自身の心に誓って、5月が始まりました。


契約を頂いた日に、そのまま本屋に行き、本を一冊買いました。


天皇陛下の心臓手術をした天野篤(あまのあつし)という方の本で、『あきらめない心』という本でした。


その本を読みながら、夜のマクドナルドで知り合いと待ち合わせをしていました。


第1章は、「命を削って、命をつなぐ」と書かれていました。


「命を削って、授業をする」そんな風に見えました。


「医者のように、授業を通して、命を救うような、人生を救うような人になろう。」


そう思いました。


知り合いがきて、僕は泣きながら、「こんな僕を選んでくれた。それが嬉しい。僕は頑張る」とひたすら話していました。


相手はニコニコしながら、話を聞いてくれていました。


それからというもの、教え子との受験勉強が始まりました。


彼は國學院大学のAO形式での國學院大学の受験を考えていました。


高校2年生の終わり頃の彼が、自分で試験方式を調べ、「國學院の法学部へいきたい」と言い出したことに、僕は「そこにいかせる」と改めて自分に誓いました。


AO対策は、「これを覚えれば受かる」とか「この参考書をやればいい」というものがありません。


しかし、「どうして法学部へいくのか」「行って何をしたいのか」という「本質に迫る問いかけ」は、僕自身が大学受験の時に、自分自身に対してもやっていたことであり、「なぜ大学へいくのか」ということは、大学生活の間に考え、そのようなイベントも行ってきました。


「彼の魅力をできうる限り引き出し、法学部生になれるだけの学ぶ姿勢と物事の考え方の土台を共に作り上げる」そう思い、授業をしました。


延長授業をした日など数え切れず。
延長授業が終わって家に帰るのは、11時過ぎ。そこから関西の高校生に電話での英語の授業。
寝るのはいつも3時過ぎ、という生活が始まりました。


法学部関連の無料の電子書籍があれば、それをダウンロードして読ませることを宿題にしたり、課題作文と関連のあるニュースがやっていれば、お風呂上がりでまだ髪も濡れている状態で電話をかけ「今すぐにテレビを見て」と連絡した夜もありました。


大口で、「大学とはこんなところだ」とか言うよりも、授業をしました。


別の兄弟の授業が始まる前に早めに行って授業をやったりもしました。


僕の右腕は、今年の8月からずっと痛むのですが、いろいろなメモを授業中に書きすぎて、けんしょう炎になってしまいました。


時に、彼の母親や弟たちへの言葉遣いや態度が気に入らず、「このままいつか気づくまで待つか」なんて思ったこともありましたが、「成績が上がるのならば、他の塾へいけばいい。僕の授業を受けたのなら、僕の教え子になったのならば、僕が気に入らないと思ったことはぶつけ、それについて考えてもらう。それがしたくて僕は自分で家庭教師を始めたのではないか。」と思い、1時間以上の説教も何度も何度もしました。


それでも、彼は僕についてきてくれました。


結果は徐々に出始めていました。


8月の模試では、日本史の偏差値は69となり、校内順位は4位。
國學院法学部の判定は、筆記であったとてもA判定でした。


もともと、「料理の専門学校にいく」と言っていた彼は、来年から法学部生になります。


僕も彼の入学式に参加するつもりです。



彼の人生の一部になれたと僕は思っています。


「100人に1回ずつ授業をやるのではなく、1人に100回の授業を頼まれるような人になろう、それを積み上げよう。」という思いで、この「家庭教師」というものを始めました。


僕は今後、どんどんと生徒が増えいくと思っていますが、こうして一人ひとりのエピソードをきちんと書ける先生でありたいと思っています。


そして「授業の感想」を、保護者様からも頂けるような先生でもありたいと思っています。


僕の授業に対する感想が生まれるというのは、「僕という人間」が保護者様にとっても「見えている」からだと思っています。


保護者様には、勉強を教えさせて頂いているわけはありません。


それでも、僕は「今大切なお子様と共に、僕自身も走っている」というところを、口だけではなく「授業」と「成績の向上」と「態度」で見せてきたつもりです。


生徒の人生の一部になれるように、ご家庭の「うちの子にはこんな教育を受けさせた」という「一家の教育の歴史」の中の一人になれるように、ご家庭に想いを馳せ、生徒に想いを馳せてきました。


僕にはいつも、一人ひとりの生徒が見えます。


今年身につけた、この信念を大切に大切にし、20代のうちに塾を建て、より多くの生徒たちの人生に「授業」を通して関わり、彼ら彼女たちを次の次元へと登らせる存在になりたいと思っています。



僕が事業を自分で始め、その初めての生徒を、大学に合格させることができました。

その保護者様で、23人の方からの授業を受けた感想を頂いたことになります。



現在、関西在住の高校生、公務員試験を受ける大学生に電話にて授業でも授業をしております。対面でも中学生から高校生まで授業を受け持っています。
いつでもご連絡ください。
限界は、他人と一緒ならば、すぐに超えられる。



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